原田重光です。
「ぺんぷらざ」という同人誌の2006年1月号に掲載の拙文を、同誌発行人の了解のもとに、以下に投稿します。長文で済みません。入会大歓迎します。
少年時代の思い出・模型電気機関車
ヤッター!走った走った!私は畳にホッペタをこすり付けるようにして眺めた。なんとカッコイイことか。このときの感動と陶酔は今でも脳裏にこびり付いて離れない。
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あれは中学2年生の夏だった。ED14型模型電気機関車がトム式貨車1両を引っ張ってレイアウトの上を疾走したのである。全て自分の手作り。轟音と共に金属がこすれ合うツンとした匂いとラッカー塗装の夢見るような香りを放って目と鼻の先をかすめて通り過ぎる。貨車にはわざと重たい辞書と金槌を載せてあるから力強さが溢れている。地響きとまではゆかないが圧倒的な迫力と臨場感!これはもうたまらない。大袈裟に聞こえるかも知れないけれど、これが熱中している少年が実感した世界なのである。
===「ぺんぷらざ」にこれまで投稿した拙文を振り返ってみると25点中実に17点が世間様にケチを付けてみたくて書いたものである。だから今後しばらく趣向を変えて昔の思い出を書いてみたい。それにしても“原発事故は古典工学の軽視が原因”だの“護憲に疑問”だの、何故こうもケチを付けたくなったか?
小・中学校時代、クラスの半分近くは県外や外地から迎えた疎開者や引揚者であって、彼ら彼女らは国語の朗読が先生よりも上手くて口も達者だった。立会演説会で熱弁を振るい生徒会々長に当選したT.J嬢、ピアノを先生より上手く弾くT.S嬢、合唱団を巧みに指揮するI.K君などにはびっくりした。視野が狭く鹿児島弁しか出来ない我々地元田舎者にはかなりのカルチュアーショックである。終戦直前には何故か「校内では方言厳禁。標準語励行」の方針が打ち出され、彼ら彼女らをお手本にするよう先生が馴れない標準語で厳しく言うのでこちらは益々元気が引っ込む。
彼ら彼女らのおかげで田舎の文化レベルは突然向上したのであるが、言葉がそんな簡単に変えられる筈もなく終戦でこの方針は引っ込んだ。ただ気の毒であり真に申訳なかったのは一部の餓鬼大将が鹿児島弁の分らない彼らに喧嘩をフッ掛け、いじめたことである。
私はもともと国語は苦手で大嫌いだった。更に口下手で声はか細い。そこへこのカルチュアーショックと劣等感が重なった。従って以来ズーッと引っ込み思案で、大人になっても言いたい事が口に出ない。今もその筈である。
ところが、「ならばペンで」と定年退職で完全なる自由を得た頃から思いのたけを綴っては友人達に配るようになった。それが後に幸いにも本誌に引き込まれるきっかけとなった。下手な文章は仕方ないとして広く世間様にケチを付け、それを読んで頂けるというのは引っ込み思案の私には有り難い。そんな訳で本誌には柄にもなく生意気なことを沢山書いて来た次第である。
これには中学時代の恩師Y先生の教えが根底にある。新憲法施行に際し先生は「自分の信ずるところを人前で堂々と言える人間になれ。それが言論の自由だ。分ったか!陰でコソコソ言うのがイッバン(一番)イカン!」と教えて下さった。
では話をもとに戻そう。===
あの頃は蒸気船や電気機関車など様々な模型作りに夢中だった。実用品も作った。針金とトタン板で省エネ目的の「蓋付き魚焼き」を作って創意工夫展に出品したら表彰状を貰った。自転車屋から貰ってきた古タイヤの切れ端を使ってブレーキ仕掛けを作り荷車に取り付けて母や姉達から有難がられた。2階にある6畳間が私の勉強部屋兼工作室であった。机と椅子を置き本立ては小さなのを自分で作った。6畳間と言っても畳は物々交換に出されて目の粗い板敷きのむき出しだった。真珠湾攻撃の前の年に父が病死したので兄が復員するまで我が家に現金収入は殆ど無く僅かな蓄えは価値が消滅、薪を買う金さえ無い。田舎とは言え筍生活だったのである。畳を剥がれたこの板敷きは如何にもハイカラな洋間に見えて気に入っていたし工作室としても具合が良く机の引出しは小物部品や半田鏝などで埋まっていた。
さて模型作りにはモーター、減速用ウォームギヤー、車輪、蒸気機関、スクリューなど自分では作れない基幹部品を鹿児島市内の小さな模型専門店に買出しに行かねばならない。親友のH君やY君と、廃線になって今はもう無い南薩鉄道の超満員列車に乗って大人達の足元の隙間に潜り込む。二つのトンネルでは煙も侵入してくる。2時間近くの辛抱で西鹿児島駅到着。復興の槌音高く、焼け野原に多くの商店が戻りつつある。目の前の桜島は悠然としてそれを励ましている風であった。
そんな一角に目指す中森模型店という専門店があった。店は小さいが様々な部品が棚一杯に並んでいて工作好きな少年達の夢を膨らませてくれる。Uコン模型飛行機用のエンジンには目を惹き付けられたが高価でとても手は出せない。今思えばこの前まで武器を作っていた中小企業が平和な精密模型作りに活路を見出した元気な姿だったに違いない。
台風に襲われると雨樋が外れて垂れ下がる。これはトタン板で出来ているからブリキ鋏で切り取れば様々な物作りの材料に使える。中学時代、蒸気船を作りたかった。蒸気機関とスクリューはあの中森模型店で買って来て船体とボイラーはこのトタン板で作った。燃料は木炭にするつもり。過熱して破裂したら危ないので安全弁を自作したのだが、船に取り付ける前にボイラーを七輪の火にかけてテストしたら熱によって安全弁の半田付けが融けてしまった。これで蒸気船は失敗、火遊びはやはり危ないと納得し止めることにした。今思えばあの狭い燃焼室で木炭が威勢良く燃えてくれる筈もなかった。
§ ED14型模型電気機関車
そこで次に熱中したのがこの鉄道模型だったように思う。鉄道で基本になるのは軌道幅。確かHゲージ、Sゲーギ、Oゲージ等大小幾つかの標準が決められていた。私とH君は24ミリくらいのゲージを選択した。体の大きいY君は30ミリくらいを選んだ。私の部屋で3人各々の好みで機関車を作ったのだが、ここでは私の機関車についてだけ述べよう。
選んだゲージに合わせて車輪を買って来た。その他モーターやパンタグラフなど、買って来た部品を部屋に並べて先ずはじっくり眺めて味わう。それから自分にしか分らないであろう大雑把な設計図を描く。細かい設計は頭の中に立体的に描いておく。 ちょっと複雑になるけれどどうしても恰好良くボギー車にしたい。2車軸のボギー台車を2台、合計4車軸とし、各台車それぞれにモーター1台を搭載することに決めている。これらの基本設計に基づいて部品は買ってある。
台車はその狭い空間にモーター、ウォームギヤー、車輪、動力伝達スプリング・ベルト、連結機などを組み込み、更に線路の曲がり具合に沿って左右に向きを変えられる様に設計しなければならない。電気配線のスペースも馬鹿にできない。これだけの重装備を考えると台車枠をヘラヘラのトタン板で作ったのでは直ぐに変形してしまうだろう。何で作るべきか?悩んだ。ふと思いついたのが厚手の銅板。父が生前に組み立てたでっかいラジオのアース線の先に20センチ×40センチ程の厚い銅板が縁側の下に埋めてあり、既に用を成していないので以前私が掘り出し何かに役立つかも知れないと小屋の隅に置いていた。それを思い出した。
この銅板で台車を、トタン板でボディーを作った。窓は木工用のノミで丹念に切り抜き、針金を四角に曲げて窓枠とした。金属板をきっちり折り曲げるには定盤や万力が有ればいいのだがそんな工具は持っていないので、大きなオネジとメネジを近所のお兄さんから貰い、木の角材と組み合わせてなんとか物をくわえられる万力を作った。これはのちのち大変重宝した。台車で苦労したのは半田付けだった。銅は熱を伝えやすいので半田付けに手間取っていると、その熱が折角付けたばかりの他の部分に伝わってそこの半田付けが外れてしまうのである。コツは付けた部分を重しで押さえておくか洗濯バサミで挟んでおくか、或いは全体が冷えるのを待つ、などして素早く付けることであった。グズグズしたり入念は禁物と分った。
デッキには昇降梯子と手摺を、屋根にはパンタグラフを、ボディー側面にはベンチレーター(換気鎧窓)とナンバープレートED145を取り付けた。台車の側面には軸受箱と板バネを取り付けた。これらはみな見せかけの模倣品である。正面には実際に点灯するヘッドライトを、デッキの下には実際に前進後退させるための切り替えスイッチを、台車の下にはコレクター(集電子)を取り付けた。最後にラッカーで塗装して機関車の完成。本物そっくりに見える。嬉しくて先ずは床の間に。
レイアウトは直径1.5メートル前後の楕円形に作った。中森模型店で買って来たレール単品を1本づつ曲げてカーブを付ける。近所の建具屋から貰って来た障子の桟の切れ端を短く切って枕木にする。平らで広めの木板を探して路盤とし、その上にこの枕木をカーブがつく様に配列して釘付けする。軌道幅をチェックする為の板ゲージを作り、これでチェックしながらレールを枕木の上に釘付けしてゆく。さらに軌道幅の中心線には機関車に電流を通す為のワイヤーを張った。電力はこのワイヤーとレールから供給される。これでほぼ出来上がり。
しかしエンドレスにグルグル回るだけでは単調なので直線コースの引っ込み線を設けた。このポイントを作るのには苦労した。先ず近くの停車場へ行って本物をしっかりスケッチしてその機能を実現できるように作る訳だが、ポイントの複雑で狭い軌道の中心にワイヤーも取り付けねばならないし、更に脱線防止用の補助レールも絶対に必要である。そしてポイントを円滑にスライドさせる為のメカも工夫しなければならない。でもこれらを何とかクリアーできた。
変圧器も作った。隣のラジオ屋のおじさんに相談して大きな鉄心とコイルのお古を貰った。おじさんが貸してくれた巻取機に新しいボビンを取り付けてこのコイルをほどきながら改めて1次コイルを巻き、その上に2次コイルを巻いたように記憶している。 機関車のスピードを細かく変えたいので2次コイルは4ボルト位から20ボルト位まで細かく2ボルト間隔でタップを出した。木の板に円形に釘を何本も打ち並べ、その1本1本にタップを半田付けすることによってスライダックとした。これで電圧を変化させることによって機関車のスピードを変える訳であるが、スピード変化に伴ってヘッドライトが明るくなったり暗くなったりするのは我慢した。それから、屋根の無い貨車、つまりトム式貨車を1両作った。
§ 完成して
これで一式完成。試運転してみるとあっちこっちで脱線する。先ず畳が凸凹しているので線路が不安定。これは畳と路盤の間にスペーサーとして厚紙等を敷いて解決。それでも駄目な箇所はレールをペンチで微調整する。それでもスピードを上げると外側へ乗り上げて脱線する箇所がある。そこには内側レールに補助レールを取り付けて解決。この補助レールは効果てき面だった。更にスピードを上げると遠心力でひっくり返った。これは当然である。数年前の東京の私鉄脱線大事故は補助レールが付いていなかったのが原因と私は見ている。JR西日本のあの速いスピードなら転覆脱線大事故は当然だった。こんなニュースに接する都度、少年時代の模型脱線事故を思い出す。
実は高校2年の関西方面修学旅行まで電気機関車など見たこともない。立体交差を走る電車や電気機関車の写真や絵を眺めては都会を想像し憧れたものである。あの雑誌「子供の科学」にED14型電気機関車のカッコイイ写真が載っていたのでこれに決めたのである。その修学旅行では古都の美しさに目を見張ったのは勿論だが駅に停車する都度、車窓に見える本物の電気機関車にも目を見張った。しかし殆どがEF型でED型は遂に見当たらず残念だった。探し当てたのは社会人になってからだった。大変に懐かしかった。
中学時代の夏休みの宿題の一つは工作だったので、私はこの模型電気機関車を抱えて先生に提出した。線路は直線の引っ込み線だけにしたので作品展示会で走行実演は出来なかったがそこそこ注目された。その翌年、私より1学年上、つまり高校1年生のJ先輩が「学園祭があるのだが、シゲミッチャンのあの機関車を展示したい。是非貸して欲しい」と言う。壊されたら困るなあと心配もしたけれど、かねて信頼しているJさんだし、こんな名誉なことは滅多に無いと思い快諾した。学園祭では特設展示場が設けられ、幕を払って中に入るとそこは薄暗くて雑然とした世界。Jさんから「シゲミッチャンご提供の・・・・」などと解説があってヘッドライトの点灯と同時に私の模型電気機関車がトム式貨車を引いて発車したではないか。私はもう内心得意の絶頂であった。
このJさんは子供のころ囲炉裏端で左手に大火傷を負い、指は5本とも指として機能できない。それでも明朗闊達で親切な人柄が皆から慕われている。その不自由な左手を巧みに補助とし、右手に半田鏝を持ってラジオやアンプリファイアーを作ったり修理もするのである。高校の校内放送設備もその維持はJさんに任せてあった様に思う。あの雑然とした特設展示場はJさんのいわば仕事場だったのである。J先輩は高校卒業と同時に母校の正門前で電気店を開業、あれから半世紀、今もお元気で繁盛しておられる。帰省したら時々お会いして懐かしんでいる。
§ 回想
ところで、あの頃は商品を売るだけでなく作ったり修理している店が多かった。隣のラジオ屋ではシャーシーを裏返して修理ばかりしていた。玉音放送はここで聞いた。菓子屋のおじさんはこね回した飴の大きな固まりを太い柱から突き出た棒に叩きつけては引き伸ばしていた。米屋では回転している精米機のベルトを長い棒でヒョイと架け替えていた。蒲鉾屋では大きなフカを包丁で切り裂き機械で挽いて練り回し、油で揚げると待っていた客が買って行った。時計屋のおじさんは片方の目に虫眼鏡をヒョイとひっ掛けて精密なカラクリを修理したり、ゼンマイ仕掛けの蓄音機の修理もしていて、回転速度を調節するガバナー仕掛けや速度確認用円板(ストロボ・スコープ)などの原理を教えてくれた。下駄やでは下駄の穴に鼻緒を通して結んでいた。豆腐屋のおばさんは早朝から冷たい水に手を入れてすくい上げている。トラックの車庫ではタイヤのパンク修理や時にはエンジンも分解手入れしていた。石材店では重たそうな石を切って磨いて彫刻している。鍛冶屋ではあの歌そのままの作業が見られた。建具屋では様々な工具で欄間の彫刻がなされていた。傘屋は竹を割り細く削って組立て、油紙を張って天井からぶら下げていた。ブリキ屋のおじさんはバケツを作り、雨樋の修理もしてくれた。魚屋の巧みな包丁さばきは見飽きない。桶屋では板を曲面に仕上げて組み合わせ、竹を編んで作った輪を嵌め、それを叩き込むとなんと風呂桶が完成。これに水を張って確認。漏れないのに感心した。歯医者は嫌いだったが、あのベルトによる自由自在な高速回転伝達機構には興味津々だった。近所の停車場へ行けば両脇に水タンクを抱えた蒸気機関車のピストン仕掛けが興味深く、蒸気力の凄さに見入った。
他にまだ自転車屋、大工、テーラー、印刷、印鑑、ポンプ修理、牛から搾って清潔に処理して売る牛乳屋、製材所、瓦製造所など書けばキリがない。どの家も本業のかたわらで農業もしていた。この農作業では難儀したがこれまた多くの科学的興味と体験、そして収穫の喜びが得られた。
我々の世代はこの様に大人達の物作り現場を日常的に見たり、手伝ったりして育った。そこに興味と疑問を持つことが出来た。大量生産の今、帰省してもそんな姿は見えない。最近大事故が多いが、職人気質は継承されているだろうか?あ々やっぱりケチを付けてしまった。 (完)
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